独VW帝国を築いたピエヒ氏、レストランで倒れて急逝

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フォルクスワーゲンAG(本社:ドイツ・ニーダーザクセン州ヴォルフスブルク、グループCEO:ヘルベルト・ディース)並びに同グループ傘下企業各社は、独・現地時間の8月28日、ポルシェAG元監査役のフェルディナント・ピエヒ氏が82歳で逝去したとの報道発表を行った。(坂上 賢治)

ポルシェAGの執行委員会・会長のオリバー・ブルーメ氏は、「彼の逝去は、ポルシェにとって大きな損失です。当社を含む私たち企業グループへの深い愛情と、飽くなき技術への貢献によって、今日の傑出した業績と成果を築き上げてきたその勇気と情熱に感謝します。

彼が生涯を掛けて行ってきた戦略的な経営判断を通じて、私たちグループ企業は現在に至る事業の基礎を築きました」と語っている。

現代スポーツカーの範となる「ポルシェ911」シリーズを生み出した今のVWグループの創業者フェルディナンド・ポルシェ博士の娘、ルイーゼ・ポルシェを母に持つピエヒ氏(父親はフェルディナント・ポルシェ博士のビジネス・パートナーで弁護士のアントン・ピエヒ氏)は、偉大な祖父直系の孫として1937年にウイーンの地で誕生。
フェルディナンド・ポルシェ博士からクルマ造りの才能を引き継ぐと共に、現在のフォルクスワーゲンAGを筆頭とする今企業グループの経営に多大な影響を及ぼした。

そんな同氏のキャリアスタートは、チューリヒ工科大学で学んだ後の1963年4月1日、シュトゥットガルト-ツッフェンハウゼンで、当時のポルシェKG(合資会社)のエンジンテスト部門の見習い社員として始まった。

後にタイプ904レーシングカーの6気筒レースエンジンの設計を手掛け、1966年に車両テスト部門の責任者に。現代のポルシェ911シリーズでも欠くことの出来ない6気筒ボクサーエンジンの伝説は当時の彼が示したリーダーシップの賜物であり、1968年にピエヒ氏はポルシェKGの車両開発部門の責任者に任命され、1971年には同社執行委員会で技術部門トップに登り詰める程の実力を示した。

中でもモーターレーシング領域では、数え切れない成功を手中にした。特に彼自身も生涯所有し続けたとされるタイプ917のレーシングマシーン(1969年に設計)は、長きに亘るポルシェの歴史上で最も成功したレースカーのひとつとされている。
また1970年に彼主導の下で917がルマン初勝利を成し遂げたことは、ポルシェにとって新時代の始まりを告げた出来事として印されている。

ポルシェKGの株式会社への移行に伴い「ポルシェは、もはやフェルディナンド・ポルシェ博士を端を発する一族だけに占有される存在ではないという決定が下され、1972年にビエヒ氏は一族の影響力を薄めるため、子会社のアウディへ移籍する。

同氏は転籍先のアウディでも技術領域で積極的な取り組みを見せる。特に拘ったのは5気筒エンジン開発だ。ピエヒ氏は、代表取締役としての立場から同エンジンの開発に携わって成功を収める。さらに今日のアウディの顔とも言える4WDシステム「クワトロ」をモータースポーツ活動を経て実用化もさせた。

その後の1988年にアウディの取締役会長に。1993年にはフォルクスワーゲンAGの取締役会長職となり、2002年にはフォルクスワーゲングループの監査役会・会長に選出された。

この間、企業グループの親会社にあたるポルシェAGの経営からは離れた立場にあったが、2012年に上位企業のポルシェAGをフォルクスワーゲンAGの傘下に併合する下克上が起きる。これによりピエヒ氏は、事実上ポルシェを頂点としてきた企業グループの経営トップに返り咲く。

しかし彼は創業者の「血統」を威光に、持ち前のクルマ造りの才能だけを糧に企業グループの玉座に居座り続けた訳ではない。1991年にはチェコの老舗自動車メーカーのシュコダを、1996年にはかつてフィアット傘下で躍進していたスペインのセアトを獲得して東欧・南欧に事業拠点を拡大。

1999年には、イタリアのスポーツカーブランド「ランボルギーニ」をグループ傘下に加えるなど積極的な企業買収を繰り返し、ベントレー、ブガッティ、ランボルギーニ、アウディ、ポルシェ、セアト、シュコダ、フォルクスワーゲンなど都合12の自動車ブランドを抱えてグループ全体の自動車販売台数を1千万台の大台に乗せ、国際市場でトヨタ自動車とトップシェアを競い合う企業帝国を築き上げている。

そして遂に迎えた2015年4月25日に転機がやってきた。ビエヒ氏が当時のフォルクスワーゲンの監査役会で、マルティン・ヴィンターコーン氏(フォルクスワーゲンAG代表取締役社長/当時67歳)の排除を試みた際、くしくも「ピエヒ対ヴィンターコーン対決」という権力闘争に発展。

これを解決する必要に迫られて開かれた緊急監査役会の投票で、ピエヒ氏はヴィンターコーン氏にまさかの敗北。ピエヒ氏の妻のウルズラ・ピエヒ氏(当時58歳)も同日付で監査役を辞任。これにより最高権力者の座から78歳で退くことになった。
ちなみにピエヒ氏の死亡原因は現段階では明らかになっていないが、南部バイエルン州のレストランで25日に倒れ、搬送先の病院で亡くなったとされている。